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かずこ:「わたしから1つ聞いていい? 八王寺町内にはいろんな地番があるようだけど、いったいどうなっているんですか?」

はちおう婆:「はちょうじ(八王寺)にはなあ、八王寺(町)、酒津、安江と三つの地番があってな、よその町内とはすこしちがうじゃろう
 地図を見ながら説明するでぇ、少し太い赤い線でかこんだところが八王寺町という地番がついとるところじゃ、赤い点線の東(右)側が東八王寺じゃからこれは除いて、残りの西(左)側の八王寺、それに、青い線でかこんだ酒津分、紫色の線でかこんだ安江分の三つを合わせたのがみんなの住んでいる八王寺じゃ」
かずこ:「どうして、こんなことに?」
はちおう婆:「江戸時代がはじまるころ、このあたりに八王寺と呼ばれる地域が確かにあったらしい、東の八王寺は、早々に八王寺村として成立したようじゃが、西の八王寺は、酒津村の中で、独立することなく枝村として明治期をむかえたようじゃ。村界を細い、あるいは少し太い赤い線で描いているので、ようく見てみ! 西の八王寺に緑の線が引いてあるじゃろ、これが、明治22年までの酒津村の南の村界じゃった、この南は安江村じゃ。明治22年に、酒津村、水江村、中島村が合併して中洲村になったとき、この安江との村界を北に引き直したんじゃ。安江村(のちに大市村安江)に吸収されて、この西の八王寺は消えたんじゃ
 北や西は中洲村、南は大市村、東は万寿村になった、上の地図で赤い点線の東の八王寺は、名を富久村八王寺→万寿村富久八王寺と変えながらも残ったようじゃ、その後、万寿村、大市村(大高村)は、倉敷町と合併して、倉敷市になるんじゃ、中洲村はそのままじゃ  昭和10年、その倉敷市が町名町界変更をするんじゃが、赤い点線の東の八王寺をあらためて八王寺町と名づけた、そのとき、赤い点線の西の八王寺も、安江から(ちょっと多めに)切り取って、八王寺町としたんじゃ、道路の南に八王寺ができたというわけ、八王寺町内会のもとじゃ
 学区の境にもなってたんじゃ、北は中洲小学校、南は大高小学校、東は万寿小学校、婆の同級生も3校に分かれて通ってたんじゃで
 道路の北は、中洲村酒津のままじゃ、中洲村が中洲町を経て、倉敷市に合併するんが、昭和19年、このとき、酒津のまんまで、道路の北に八王寺町内会がひろがったんじゃ
 安江にひろがったのは、7組の団地が開発された昭和39年ごろと、8組の団地が開発された平成17年ごろじゃ」
かずこ:「それで、3つの地番があることがわかったわ」

はちおう婆:「もうちょっと詳しゅう知りたけりゃあ、八王寺あれこれ>地理と歴史>明治期~再考その1再考その2再考むすびを見てみい」

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